大椿寺の歴史

宗派
曹洞宗(そうとうしゅう)
山号
龍華山 大椿寺 (りゅうげざん だいちんじ)          
住職
26代目住職 鷲山 晃道(わしやま こうどう)
歴史
大椿寺は平安初期(西暦806年)の大同元年に法相宗の僧侶である大徳玄賓僧都が開かれた寺院です。江戸初期に入り、玄賓僧都から800年余り続いた仏教の教えが途絶えそうになりました。当時の領主であった備中松山藩主 水谷勝隆はその事態を憂い、寛永5年(西暦1628年)に現在の岡山県高梁市にある定林寺7代目住職 源嶺呑高禅師に大椿寺の復興を命じられました。源嶺呑高禅師は大椿寺の復興に尽力し、玄賓僧都がいた当時の大椿寺を思わせる寺院に復興されました。復興後の大椿寺3代目住職 不鑑龍尊和尚は、この歴史を梵鐘に記し、後に続く住職並びに檀信徒の方々に伝えられました。時代は進み、明和6年(西暦1769年) 8代目住職 海雲龍岳和尚により、大椿寺はさらに大きく復興、再建されました。その功績を称えて、師を「中興の祖」お呼びしております。明治に入り、21代目住職 満智覚成和尚が再度、大椿寺の建物を再建され、大椿寺の寺産を保護、増成され、永続の基礎を固められました。23代目住職 文海大勇和尚は、本堂を修繕し瓦葺となし山門を改め、大椿寺の歴史が刻まれた梵鐘を再び造られました。平成18年に25代住職 暁峰惠祥和尚は檀家総代縁者の尽力を賜り、本堂と庫裡を再建され現在に至ります。
大椿寺のご本尊様
弥勒菩薩(みろくぼさつ)
開基
大徳玄賓僧都(だいとくげんぴんそうず)
玄賓僧都:天平6年(734年)-弘仁9年(818年)6月17日没
 現在の奈良市にある法相宗の本山、興福寺で法相教学を学び、その後、伯耆国会見郡(現在の鳥取県西部)で俗世間を離れて仏道修行をされていました。その後備中国哲多郡(現在の新見市哲多町)に修行生活の場所を移されました。延暦24年(西暦805年)に桓武天皇が病気になったためその回復を祈願しました。桓武天皇は無事に回復され、その功績を称えて延暦25年(806年)に朝廷より大僧都に任じられましたが、玄賓僧都はこれを辞退されています。桓武天皇の子である嵯峨天皇からの信任も厚く、大同4年(西暦809年)に招請を受けて嵯峨天皇の兄である平城上皇の病気平癒を祈願されました。弘仁2年(西暦811年)から7年間、夏と冬に慰問の書や布を嵯峨天皇より賜っています。       玄賓僧都のこのようなお姿は後に続く僧侶の憧れとなりました。鴨長明の「発心集」にも記があり、知らない人はいないほどの高僧でありました。良寛さま も玄賓僧都のお姿に憧れて僧侶になられました。それを著す記述が、良寛さまの弟子である貞心尼の和歌集「蓮の露」のあとがきにこのようにあります
「 家を捨てて、禅門に入りしより、僧都玄賓のあとをおひ 」
 良寛さまは子供たちと心を同じくして遊ばれるとても優しいお姿を思い浮かべられる方が多いかと思われますが、ご自身の修行には手を抜くことなく、厳しい修行を続けられた禅僧であったことも有名です。そのお二方のお姿を重ねますと、玄賓僧都も道心堅固な方であったことが窺えます。    
平成30年6月17日、大徳玄賓僧都が遷化されてちょうど1200年となります。
寺紋
吾唯足知 「吾唯だ足るを知る」                

大椿寺の歴史の流れ

大同元年(西暦806年)
大徳玄賓僧都により開山
寛永5年(西暦1628年)
備中松山藩主 水谷勝隆により復興される
明和6年(西暦1769年)
8代目住職 海雲龍岳和尚によりさらなる復興がなされる
平成18年(西暦2006年)
25代目住職 暁峰惠祥和尚が檀家総代縁者の尽力を賜り、本堂と庫裡を再建される
平成27年(西暦2015年)
10月18日、26代目住職 信海晃道和尚現在に至る
住職略歴
駒澤大学仏教学部仏教学科卒業後                平成17年~平成19年 愛媛県新居浜市 佛国山瑞應寺にて三年間安居 平成21年~平成23年 曹洞宗総合研究センター教化研修部門               研修部に在籍、修了             平成24年~平成26年 曹洞宗総合研究センター教化研修部門               研究部に在籍、修了             平成27年10月17日  龍華山大椿寺住職となる